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【車人#03】レーシングドライバー・片岡龍也「すべての人を喜ばせたい !」
目次
車人(くるまんちゅ)とは
日本の自動車関連産業の就業人口は約550万人と、就業人口全体の約一割。
そんな自動車産業で活躍する人々をMOBYでは『車人(くるまんちゅ)』と呼び、彼らの人生観をさまざまな視点から紐解く。車と生きることを決めた車人の生き様と、未だ見ぬ“クルマの世界”をのぞいてみよう。
第3回目のゲストは、レーシングドライバーの片岡龍也氏。
国内最高峰の自動車レース「スーパーGT」で活躍し、フォーミュラマシン(オープンホイール)で競い合う「スーパーフォーミュラ」のチーム監督や、市販車ベースのレース「スーパー耐久」のチームオーナーなど、さまざまな立場からモータースポーツに接している。
今年39歳になる片岡氏は、ほかのレーシングドライバーと違い、「走ること」だけに焦点を当てることなく、モータースポーツ全体を見つめている人物だ。
“すれ違う車の名前はだいたい言える少年”だった
小さい頃から車が好きで、両親に買い与えられるおもちゃといえばミニカーだった。しかしながら、子供時代はいまの仕事の「レーシングドライバーになりたい」とは少しも思わず、「レースが好き」だという感情もなかった。
片岡氏は当時の自分を振り返り、「子供の頃はスポーツが好きで、野球や柔道とか、身体を動かすことがたのしみでした。自転車に乗るのも好きで、長い坂道を猛スピードで駆け抜けていましたね」と語る。
車に興味を向けたのは小学4年生のとき。ラジコンにハマって、近所のショップに通いはじめる。父親とともに、バギーのラジコンを走らせていたとか。
「小学4年生から卒業するまではラジコンに興味があって、近所のショップに通いつめて、親父とともに4輪駆動バギーのラジコンを走らせていていました。中学生になると、父親の友人たちがカートを始めたのをみてたら、ウチの親父もカートを購入して、『カートをやりたいならついてこい !』と。そんなこんなで、サーキットを走るようになったんです」
「カートやレーシングスーツを合わせると、50万円ほどかかりました。サーキットに通い始めてわずか2〜3週間後には、親父とともにレースに参戦。そのため1台では足らなくなり、もう1台中古を購入して、デビューから6レース目に優勝できました」
すっかりレースに魅了された片岡氏は、中学2年生から本格的なレース活動をはじめる。ドライバーとしての活動は順調で、シーズンを通して好成績を収め続けた。
カートをはじめて3年目になると、全日本カート選手権に出場するほどの腕前となり、さらなる才能を発揮していく。
その反面、全日本レベルの参戦資金の大きさから、経済的な負担も増えていく。一時は「カートをやめる」という話も出たが、お世話になっていたショップからの援助もあり、カートを続けることができた。
高校生になるタイミングで「TOYOTA YAMAHA RACING TEAM」のワークスチームに参画できるチャンスがあり、所属すると同時にお世話になっていたショップの定員として働き始める。
19歳の時に全日本カート選手権で優勝も経験した結果、「僕の思うカートの頂点に立てた」と感じたという。
「その頃は、四輪の世界にいけると思っていなかったことや、そもそも最初から目指してもいなかったこともあり、カートの世界でプロとして頂点に立つこと自体が目標でした」と片岡氏。
当時の四輪レースは「裕福な子がいく世界」というイメージが強く、実際に、参戦するのに年間2,000万円はかかるとされていた。
「プロのカートドライバーとしてやっていくつもりだったのですが、1度優勝したときに、妙な達成感が生まれてしまって。年齢のわりには悪くないお給料と賞金をもらっていたんですが、先を見据えた時に、成績上位のレベルでもいまの環境のままなのかなと。カートのころにアッパーが見えて夢が見られなくなり、稼げる金額にも限界が見えました。当然、まだ19歳で一生ここに人生掛けていいのかなとも思って、ここでカートをやめようとも考えました」
「自分的に夢が見れないし、そうそうお金も上がらないと考えると、この時期が一番レースに飽きていたかもしれないですね」
消えかけていた”モータースポーツへの火”がついた
クレジット:H.Orihara
20歳になり、所属チームの「TOYOTA YAMAHA RACING TEAM」から、「トヨタが『フォーミュラトヨタレーシングスクール』という、若手育成を目的としたプロジェクトをやるから受けてきたらどうだ」と勧められ、軽い気持ちで受講した。
スクール側は思い出づくりという感覚だったようだが、実際は将来F1に参戦するトヨタ専属ドライバーを発掘するプロジェクトのようなもの。
片岡氏は「ここのスクールで頑張れば、カートで考えられなかった夢に挑戦できる。4輪カテゴリにステップアップできるかもしれない」と意欲を燃やす。
スクールに参加してからは、ステップアップするための選考会や、テスト走行などでトップの成績を残す。その結果、片岡氏は「フォーミュラトヨタレーシングスクール」初のスカラシップ生に選ばれたのだった。
「このときから、僕の中で見えていなかった、四輪レースの世界が見えてきて、消えかけていたモータースポーツへの火がついたんですよ」
初めての試みで”何が正解かわからなかった”
クレジット:H.Orihara
2000年には、かつてトヨタが主催していたレースの「フォーミュラトヨタ」に参戦し、シリーズ2位の成績を収める。2004年からのら4年間は、「フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)」で活躍するが、2008年に参戦シートを失うことになる。
片岡氏は、「トヨタの初めてのスカラシップ生ということもあり、何が正解かわからなかった。とにかくステップアップさせることが重要だったので、敷かれたレールを走っていた感覚。経験がない若者が、トップカテゴリのベテラン勢と戦うのは大変でした」
「結果が出るうちは良いが、結果がでなくなってくるとモチベーションも下がり、負の連鎖でダメになりますね」と当時を語る。
一方、「全日本GT選手権(現スーパーGT)」には2003年から参戦。初年度は「GT300クラス」に2度スポット参戦し、どちらも優勝を果たしている。
2004年、2005年と上位クラスの「GT500クラス」に昇格。「TOYOTA TEAM TOM’S」にて初優勝も経験し、順風満帆なレーシングドライバー人生を歩んでいた。
スーパーGTは、「GT500」と「GT300」のふたつにクラス分けされる。
「GT500」は、レクサス(トヨタ)・日産・ホンダの3社が巨費を投じて制作したマシンで参戦する、メーカー同士の負けられない戦い。
「GT300」は、「GT500」にくらべ参加チームの大半がメーカーの支援を受けていないプライベートチームで、プリウスなどのハイブリッド車が参戦しているのが特徴だ。
メーカーの意地をかけた「GT500」と、プライベートチームが手がける「GT300」という性能差のあるマシンが同時にサーキットを駆け巡り、抜き差ししていくのが「スーパーGT」の醍醐味といえる。
クレジット:H.Orihara
そんな過酷なしのぎを削るレースで、片岡氏は自身のスキルアップのため日々邁進していたが、2009年にターニングポイントとなることが起こる。
活動のメインとしていた「GT500」での参戦で、成績不振やチーム状況などの要因から「GT300」へ移籍することになったのだ。
「GT500はメーカーがしのぎを削る大舞台。一方のGT300は、アマチュアチームがやっているような場所。そういう勝手なイメージがあって、GT300にいく決断がなかなかできなかった。けれども、トヨタのサポートもあり、最終的には決心がつきました」
同年からは「GT300」の「チームWedsSport Racing Team with BANDOH」に移籍し、織戸学選手とのコンビでGT300のシリーズチャンピオンを獲得。
「当時のチームBANDOHは、いい意味で自由で、業界的の異端児的な雰囲気があった。”GT500″の頃は、自動車メーカーチームのドライバーという重圧や、常に勝たなければいけないという責任感が大きかったんですけど、GT300に移ってからは、レースが楽しみになった」
そのうち、チームBANDOHが「GT500」に参加する計画がもちあがる。そこで、再び「GT500」へ挑戦するチャンスを得ることになる。
片岡氏は、「GT500への参戦は、ギャラがほぼ出ない状況。それでも、もう一度GT500に乗りたいという想いが強く、厳しい環境のなか挑みました。でも、いくらGT500でも最下位争いしか出来ない環境に疑問を感じてGT300への移籍を考えました」と振り返る。
クレジット:H.Orihara
2012年は「チームBANDOH」から離れ、現在のチーム「GSR & Studie with TeamUKYO(現:GOODSMILE RACING & TeamUKYO)」に加わる。元F1ドライバーとして有名な片山右京監督と、人気ナンバーワンとも言われる谷口信輝選手とともに戦うことになり、2014年にGT300 シリーズチャンピオンに。そして、2017年にもGT300シリーズチャンピオンに輝く。
また、2016年には「TOYOTA GAZOO Racing」からニュルブルクリンク24時間レースデビューし、レクサス RC-FでSP PROクラスで優勝を飾った。
“いろいろな人の想い”がレースを作っている
冒頭でも触れたが、片岡氏はただレーシングドライバーとして走るだけではなく、「スーパーフォーミュラ」の監督、やスーパー耐久のチームオーナーなど、さまざまな立場からモータースポーツを見つめている。
片岡氏に「仕事とはなにか」という質問をすると、「人を喜ばせること。仕事として対価を貰ってやっている以上は、関わっている人やファンの人達が喜ぶ結果として返すこと。すなわち、ファンの求めるものを提供することですね」という答えが返ってきた。
実際、彼はいまレーシングドライバー以外にも多くの顔を持っている。
2017年より国内最高峰のフォーミュラカテゴリに参戦する「チーム ルマン」の監督に就任するほか、同年からスーパー耐久というカテゴリで、自身がオーナーとなるチーム経営に携わりながら監督も兼務している「チーム T`s CONCEP」を立ち上げることになる。
さらに、ここまでステップアップしてきた原点のひとつとも言える、「フォーミュラトヨタレーシングスクール」の講師に就任。
片岡氏は、いまに至るまでの経験を、これからの若手に伝えて育成に活かす活動に力を入れているのだ。
クレジット:H.Orihara
モータースポーツに詳しくなくても、レーシングドライバー・監督・オーナー・講師と違う役割を兼ねるのは大変なことだと想像できる。しかもそれが、ジャンルが違うレースとなればなおさらだ。
「ドライバーの頃はいろいろな人が関わっているな、くらいの認識だったんですけど、監督となると話が変わる。1台の車に沢山の人が携わって、どれだけの責任があって、その分のプレッシャーもあって。レースはさまざまな想いが入り混じった、壮大なプロジェクトだと思いました」
監督という立場でもいままでの見え方とだいぶ変わる。それが、チームオーナーとなるとどういう物事が見えるのか。
「雇われの監督であればなんでもっと予算を上げてくれないんだって思いがちですが、オーナーはオーナーで、それぞれのコスト感やチーム運営のバランスに苦労しています。当たり前ですが、運営の大変さやお金の大切さを学びましたね。そういうのも手伝って、ここ数年はレースというものを多角的に見ることができたなと。ドライバーからしたら、内情を深く知りすぎるもよくないですけど(笑)」
世間の若者に対しても、思うことがあるという。
「基本的には社会にでると、自由の無さを感じますよね。思わず目をそむけたくなりますが、ストレスの要因を見つめることが大切かもしれません。なぜ不自由を感じるのか、そこから目を背けると自分の限界に気づかず、気持ち的にやられてしまうので。辛いことは沢山ありますけど、その経験が成長に繋がることもありますし、誰しもが経験することだと知っていて欲しい」
「僕も若い頃は、嫌なことは後回しにして、好きなことを優先してやっていた。だけど歳をとると、あの時辛抱すればよかったって、後悔しています」
「でも決して無理はせず、休む時はちゃんと休むことが重要です。本当に辛いときは逃げて欲しい。自分がぶっ壊れるほどの環境からは、いますぐ逃げたほうがいい。ぶっ壊れる前までが、タメになる経験です」
ドライバーとしての”悩み”
最近は、自身のドライバー人生について悩みがあるという。
「車に乗れるなら乗っていたいんですけど、若手のことを考えたら、自分の育てている人達にスッと席を譲るのもひとつの”美”かと。ただ、やっぱり乗るのは楽しいので、この楽しみを誰かに譲りたくないっていう気持ちもあります(笑)。業界の未来を考えたら席を譲るべきだし、個人的には乗っていたいし。これに関しては、最後まで悩む部分ですね」
そう笑いながら答える片岡氏に、「仕事でのやりがいは ?」という問いを投げかける。すると「結果に関係なく、”100%の力”を出せたとき」と、プロの美学を見せつけた。
死ぬまで”モータースポーツに関わりたい”
「この先、電気自動車がメインの世の中になっても、エンジンを使ったモータースポーツは”人を楽しませるもの”として残ると思うんです。僕自身はさまざまな立場から、ファンの方はもちろん、モータースポーツに関わるすべての人を喜ばせていきたい」と話す片岡氏。
「これからの夢」を訪ねると、「死ぬまでモータースポーツに関わりつづけること」締めくくってくれた。
レーシングドライバー片岡龍也。たんに走るだけではない、”モータースポーツへの熱い想い”がファンを引きつける魅力なのだろう。
片岡龍也氏の関連サイトはこちら
取材・文:MOBY編集部
撮影:佐藤亮太、三浦眞嗣、H.Orihara
- 執筆者プロフィール
- MOBY編集部
- 新型車予想や車選びのお役立ち記事、車や免許にまつわる豆知識、カーライフの困りごとを解決する方法など、自動車に関する様々な情報を発信。普段クルマは乗るだけ・使うだけのユーザーや、あまりクルマに興味が...