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【車人#02】レース実況・鈴木学|職業は「しゃべり屋!?」

自動車産業で活躍する人をMOBYでは『車人(くるまんちゅ)』と呼びスポットを当て、色々な角度、視点、立場から“自動車”に迫ります。今回は“レース実況”の鈴木学さんに、現在に至るまで車業界で活躍してきた、その経験をお伺いします。

車人(くるまんちゅ)とは

日本の自動車関連産業の就業人口は約550万人と、国民の約一割。

そんな自動車産業で活躍する人々をMOBYでは『車人(くるまんちゅ)』と呼び、彼らの人生観をさまざまな視点から紐解く。車と生きることを決めた車人の生き様と、未だ見ぬ“クルマの世界”をのぞいてみよう。

第2回のゲストは、元レーシングドライバーにしてレース実況者の鈴木学(すずきまなぶ)氏。

世界最高峰のドリフト競技D1グランプリや国際自動車連盟(FIA)公認のインターコンチネンタル・ドリフティング・カップなど、世界的に有名なドリフトイベントの実況をはじめ、ラジコンイベントのMCなど多岐にわたり担当。正確性のあるユーモアな物言いで、ファンから絶大な信頼を集めている。

さらに車のグラフィックデザインやチューニング雑誌「Option(オプション)」への寄稿など、活躍の場は留まることを知らない。現在54歳である鈴木氏は、常に車で新しいことができないか追求し続けており、「車の世界で生きていくことしか考えられない」と言い切る。

理由など無く、ただ車が好きだった

鈴木氏が車を好きになったのは、物心ついたときから。

幼稚園の頃の夢は、「パトカーか救急車か消防車の運転手」。小学生になるとカローラやサニーなど目につく車の車種をすべて言い当てるほど、とにかく車が好きな少年だった。


「小さい頃に買っていたプラモデルは全部車だったかな。まわりに車関係の仕事に就いてた大人もいないし。親も車と全然関係ない仕事だったので、なんで好きになったかは分からないんですけど」

理由もなく車が好きだったという鈴木氏は、親の仕事の都合で11〜13歳の2年半をブラジルで過ごし、スーパーカーブーム全盛期の日本へと舞い戻る。


「ブラジルから帰ってきた当時、日本はスーパーカーブーム真っ只中でした。俺も当然、スーパーカーを追っかけて『サーキットの狼』を読む。まいにち寝る間も惜しんでページをめくりましたね。そのころの若者に車といえば、ランボルギーニ、ミューラー、カウンタック、ロータスヨーロッパとか、いわゆるスーパーカーブーム世代の車が人気で中でも、ポルシェが好きでした」

レースとの出会い

1977年に富士スピードウェイで初めて開催された『F1日本グランプリ』をテレビで観戦。車が風をきる様子に興奮し、画面越しに歓声をあげた。そして翌年、実際に富士スピードウェイへ足を運ぶ。はじめて目の当たりにするレース上の空気は、熱狂的で息を呑むほどだった。そこから鈴木氏は、F1に傾倒する。

「フェラーリの走りとか、けたたましいエンジン音とか、会場の熱にのまれました。純粋にかっこいいなと、言葉を失うほど感動しましたね」

1980年、高校生当時に開催されていた、『富士グランチャンピオンレース』。その裏側では暴走族がレースの真似事をして、『スーパーシルエット』と呼ばれる公道レースが流行し、取締が厳しくなるなど、社会問題まで発展した。

「スーパーシルエットの前座でやっていたTSレースっていうサニー(B110型)やスターレット(KP61型)が走るツーリングカーのレースが大好きでした。1964年から発行されている雑誌『オートスポーツ』とかを読み漁っているうちに、『これなら自分でできるかも』って思った。それが『レーサーになりたい』って思ったきっかけ」

16歳で二輪の免許を取得。18歳で四輪の免許を取得してすぐ、初めてのサーキット走行に挑戦した。ストリートの経験も無いまま、いわゆるチューニングも無いままで挑んだサーキット。筑波で走った1度のバイクレースで才能の無さを実感した。

「ベタベタのシャコタンにして、なんだかよくわからないまま適当にタイヤを買って、マフラーも直管にすりゃ早いだろ、みたいな。で、サーキット走って。これがまた遅いんだ」

初めてのレース

初めて走ったサーキットでは、コースアウトしてクラッシュ。それでも、バイクで走った時と違い、「これはいけるな」と思ったという。

翌年、仲間と一緒に車を作り、アマチュアレースの大会、富士フレッシュマンレースにて出場。

「どこで買ったのかよく覚えてないけど、RX-7を中古で買ってきて、みんなでバラバラにして、内装を剥がしたりロールバー入れたりして。レース好きのサーキット走行する仲間と一緒に作りました。練習もしてないんですよ。要するに、ぶっつけです。予選の1週目に、横転大クラッシュで終わりました」

デビュー戦は1周で廃車。救急車で運ばれたが、辞めようなどとは微塵も思わなかった。むしろ「いよいよ始まる、さぁどうしよう」と悩んだ。失敗から学び、一気に効率を考え、次はどうするべきかと試行錯誤を繰り返したという。

同時に資金が必要になった。レースの知識をもっているから、それを活かして仕事をしようと考えた。

「毎週のようにレースサーキットには行くので、お金を稼ぐためにカッティングシートの仕事をはじめました。20歳くらいの時かな。友達とステッカーを貼って、カラーを変えるってことを遊びでやってたのが始めたきっかけです。自分の車だけじゃなく、友達の車もやってあげたりしてました。そうしてるうちにいろんなガレージから、やってくれって言われるようになりましたね」


カッティングシートの仕事をこなしながら、レースに挑む日々。一番楽しかったのは28歳くらいだという。2代目のザウルスでチャンピオンに輝いた。

「いわゆるアスリートみたいに“ゾーン“に入るじゃないですけど、ミリ単位でわかるんですよ。本当に。パーッと走って、1ミリ単位でタイヤとか車高とかが、全部見えてくる。で、それが当たる。何週目に良い状態で良いタイムが出るか秒数まで見える。信じてもらえないかもしれないけど、ゾーンに入ってた」

ただ、そこにはレースを辞めるきっかけもあった。

「瞬間的なものでは無く、積み上げてきてるからわかる。時間がかかるんです」

それは、レーシングドライバーとして致命的だという。

「僕の場合だとそれが1年かかる。これを1戦とか2戦、もしくは瞬間で全部やらなきゃいけない」

「しゃべり屋」の原点は、情報屋だった

レースの資金集めとして取り組んでいた、カッティングシートの仕事。今でこそフルラッピングと呼ばれ、当たり前になった技術だが、鈴木がカッティングシートのデザインを始めた30年前は素材の値段も高く、周りにも認められず利益にもならなかった。

「ただ、やりたいからやっていて。その時は決していいことはなかった。だけど何年か後には“フルラッピングが普通になるだろう”と思ってやっていましたよね」

そうしていろいろなガレージの顔を知るようになった。鈴木の存在も知られていき、新しい仕事に繋がっていく。

「24歳に土日にサポートレースをおこなっていたんですけど、空き時間にいろんな人からお話が聞けたんです。その情報がおもしろくて、サーキットの館内放送を担当しているスタッフさんや、FMラジオのDJに渡していたんです。つまり情報屋というか、アシスタントみたいな役割を担っていた。そんなことを半年くらいやっていたら、『めんどくさいからそのまま喋っちゃえば?』って言われて、サーキットの館内放送やラジオでお話するようになったんです」

走り屋から「しゃべり屋」へ

レーサーとしてステップアップをしていくと、より資金が必要になる。フォーミュラでミドルフォーミュラまでいくと年間で何千万かかる。20代の後半、ある程度の結果を出すようになったところでスポンサーも着くようになっていた。

「ちょうどその頃、バブルが崩壊して、スポンサーが逃げて負債をかかえました。働いて返しつつ、今度はチームのマシンに乗せてくれる、というところにだけ乗り、賞金だけもらうようになりました」

「賞金だけでも稼げるようになってきたのが30歳くらい。結局ね、34歳くらいまでレースをやったんですけど、その後半はもう出てもスーパー耐久。賞金もないし、ただ出てるだけになっちゃって」

もっと上へいかないとスポンサーもつかない。そのころ同時にやっていたしゃべる仕事は、サーキットでのレース実況の仕事だけではなく、FMのDJやビデオ、車系の媒体などたくさんの仕事が入るようになっていた。

「当時、それだけで生活できるぐらいになってて、レースはもういいかな。って」

負債を抱え申し訳ないとは思いつつ、どうにかなるという根拠の無い自信はあった。レーサーからレース実況者としての、しゃべりの仕事にシフトしたきっかけは2000年から始まったドリフト競技のD1グランプリ。新しいモータースポーツの始まりとなる大会だった。

「D1は1つの大きな転換かな。ここでの実況は、『これは本当に自分が作り出せる』と思った。外に出てお客さんと体感しながら伝える、いわゆるドリフトの実況スタイルを作ったのは僕ですよ。もちろん僕だけじゃないですけどね。土屋さんや周りの人と一緒に作っていきました」

その当時、D1で半数ぐらいのカラーリングのデザインをやっていたという。そのカラーリングは、レースのカラーとは全く異なる。

「いろいろな流行りがあって、全部作り出しました。それをみんながマネをするようになり、世界が真似するようになった」

好きとか嫌いじゃなく、車の中でしか生きていない

尊敬する人は誰かと聞くと、「大きな病気もないし、なにかしらの仕事が常にあるから、根拠の無い自信はあった。きっとそれで突き進められたよね。それが、今、できる人がいたら羨ましい」と話した。

「ドリフトでお金が無いって言いながらD1に出て、一生懸命頑張ってる人たちに対しては、羨ましいし、憧れがある。昔、自分がそうだったから。今ないんですよ。すべてを捨てて、それに注ぎ込むというか、集中して何にも関係なくできるっていうものがない。だから自分の仕事を一生懸命やってる人たちは尊敬できるっていうか、いいな、と思います」

自分の性格は真面目だという。

「自分に真面目に生きてる。人にも厳しいですよ。一緒に仕事する人に対して厳しい。だけど、それ以上に自分に厳しい」

それがモットーだという。とことん自分を追い込み、ずっとギリギリで生きている。

「終わった後に僕のしゃべりも入ったうえで、『今日のレース面白かった』ってなればいいな。そのためには、実は自分だけじゃなくて音響だったり事前の準備、ちゃんとした仕込みも大切。自分でもたくさん資料を作って持っていきますが、誰かからもらった資料がもし間違っていて、間違えて人の名前を連呼していたら、その人に申し訳ない。それはショックだし悔しいんですよ。そういうことって『事前の準備』それ一つです」

どれだけ人にレースの状況や臨場感を伝えられるか。それによってイベントがどれだけ面白くなったか、ということにこだわる。大きな会場にいる人々を、しゃべりで釘付けにしたい。鈴木は、そんな想いを持って、仕事に打ち込んでいる。

やってきたことすべてが、「しゃべり」に役立ってる

これからの目標は無い。そろそろ終わりだと思っているという。

「実はしゃべりの仕事は意外にアスリート。すごく疲れるんですよ。たぶん頭の回転と、喉も3日くらいしゃべると筋肉痛でしゃべれなくなる。声が出なくなってくる。今やってるようなしゃべりであるならば、もう限界です。たぶん実況はスタイルを変えていかなきゃならない」

できるだけ仕事を続けたいか?という質問に対して、「そんな気はない。今のままやり切れたら、たぶん60歳が限界。今、54歳だから、あと6年続けられたらいいかな」そう話す鈴木に、その後も車関係のお仕事がいいですか?と聞くと、

「もちろん、車に関わらない仕事は考えられないでしょう」と笑顔で答えた。

取材:金子高志、三浦眞嗣
撮影:佐藤亮太、三浦眞嗣
執筆:MOBY編集部

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